熱血先生はたようじ 波多洋治 BLOG

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2016年12月22日 金婚式を迎えて =波乱万丈の半生記= 波乱万丈その六

いるわ、いるわ・・・ 高校生のワル達。教え甲斐、鍛え甲斐のある若者達よ。今に見ていろよ、私の手の中で踊らせてあげるからね。教育こそは男児一生の仕事、命ある限り、このワルガキ達の前で、人生を語ることが出来る。それから、格闘すること15年、教師冥利尽きるような15年間でありました。

岡工教師15年目の夏のことであります。私の隣は、家内の母の実家であり、「本家と」してのお付き合いをしておりました。叔父(家内の母の弟)は、私が妻と付き合い始めた大学生の頃から、よく面倒を見てくれていました。卒業して、新見市内に下宿する時、軽トラックに、わずかばかりの私の荷物を積んで、180号線を走って引っ越しの手伝いをしてくれました。

叔父は、水道会社を経営しており、結構羽振りも良く、地元では数少ない成功者の1人でした。しかし、突然の倒産の憂き目に遭うことになりました。負債総額10億1千万円。今こそお世話になった叔父のために恩返しをする時と思い、商売も経営も何一つわからないまま、ただひたすら「恩返し」の一念に燃えて、債権者の前に立って負債処理に当たったのであります。

銀行や債権回収機構のプロを前にして、売却寸前であった本家を守り抜くことができた、よくぞよくぞ戦ったと我ながら、あの時の無鉄砲さに驚きを禁じえないのであります。その10年後、叔父の息子(従弟)が、新たな会社を起こし、再建に乗り出し、現在従弟の息子が社長となり、一筋の灯が見えるようになり、本家再建に安堵しているところであります。

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2016年12月21日 金婚式を迎えて =波乱万丈の半生記= 波乱万丈その五

鹿田小学校9年目、僕は全く気が進まなかったが、公務分掌では教務副主任という立場であった。
私の出勤は、いつも1番に来ることだった。朝早く来て、運動場を子供たちと走るのが体育教師の務め、学級経営の柱でありました。朝の運動の中で子供たちの成長を、子供たちとともに喜び合うことでした。

春の日の、とある朝、職員室の行事黒板にスケジュールを書いている時、クラスの子供たちが、どどどーっと職員室に走り込んできました。「出来たよぅ」と叫んでいたので、何が起こったのか、はすぐ分かりました。私が運動場に出ずに、行事黒板にスケジュールを書いている時、鉄棒の逆上がりのできなかったMちゃんが出来るようになった朝だったのです。

子供たちと共に喜び合いましたが、なぜその場におれなかったのか、心の中は申し訳ない気持ちで一杯でした。子供たちの成長を目の当たりに見て、共に喜び合えてこそ、小学校の教師ではありませんか。このまま小学校にいたら、教師でなくなる。私が小学校から高等学校に転勤するという思いに駆られた時であります。

教師なら、子供の前で勝負する。教師なら、子供と共に伸びる。そんな思いがぷつんと切れた時でありました。新たなる職場へ。そして昭和62年4月、9年間勤めた鹿田小学校から、岡山県立岡山工業高校に転勤したのであります。

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2016年12月20日 金婚式を迎えて =波乱万丈の半生記=  波乱万丈その四

宇野小から芳田小(4年間)へ。そして鹿田小(9年間)へ。
当時、私は岡山商科大学空手道部の師範をしており、木曜日の夜に、鹿田小の体育館をお借りして、教え子達と空手道の稽古をしておりました。

 スポーツ少年団の活動が大変盛んな学校であり、そのためしばしば体育館使用不可の状況が起こり、「いつでも好きな時に練習のできる道場が欲しいなぁ」という思いを、何としても実現したいなぁと決意して、銀行から借金をして(銀行には教え子がいた)、日本一の空手道場建設を目指して、昭和61年1月から設計着手(建築士に教え子がいた)、4月工事開始、併行して協賛金募集、秋から新規道場生募集、そして遂に12月14日完成!

 前夜、道場の真ん中で、大の字になって寝た。空手道に志した男のロマン、実現の瞬間であった。

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はたようじ 波多洋治

はたようじ 波多洋治

自由民主党公認岡山県会議員

昭和18年9月14日 島根県隠岐島生れ

住所/岡山県岡山市北区白石65-3

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