熱血先生はたようじ 波多洋治 BLOG

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2016年12月21日 金婚式を迎えて =波乱万丈の半生記= 波乱万丈その五

鹿田小学校9年目、僕は全く気が進まなかったが、公務分掌では教務副主任という立場であった。
私の出勤は、いつも1番に来ることだった。朝早く来て、運動場を子供たちと走るのが体育教師の務め、学級経営の柱でありました。朝の運動の中で子供たちの成長を、子供たちとともに喜び合うことでした。

春の日の、とある朝、職員室の行事黒板にスケジュールを書いている時、クラスの子供たちが、どどどーっと職員室に走り込んできました。「出来たよぅ」と叫んでいたので、何が起こったのか、はすぐ分かりました。私が運動場に出ずに、行事黒板にスケジュールを書いている時、鉄棒の逆上がりのできなかったMちゃんが出来るようになった朝だったのです。

子供たちと共に喜び合いましたが、なぜその場におれなかったのか、心の中は申し訳ない気持ちで一杯でした。子供たちの成長を目の当たりに見て、共に喜び合えてこそ、小学校の教師ではありませんか。このまま小学校にいたら、教師でなくなる。私が小学校から高等学校に転勤するという思いに駆られた時であります。

教師なら、子供の前で勝負する。教師なら、子供と共に伸びる。そんな思いがぷつんと切れた時でありました。新たなる職場へ。そして昭和62年4月、9年間勤めた鹿田小学校から、岡山県立岡山工業高校に転勤したのであります。

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2016年12月20日 金婚式を迎えて =波乱万丈の半生記=  波乱万丈その四

宇野小から芳田小(4年間)へ。そして鹿田小(9年間)へ。
当時、私は岡山商科大学空手道部の師範をしており、木曜日の夜に、鹿田小の体育館をお借りして、教え子達と空手道の稽古をしておりました。

 スポーツ少年団の活動が大変盛んな学校であり、そのためしばしば体育館使用不可の状況が起こり、「いつでも好きな時に練習のできる道場が欲しいなぁ」という思いを、何としても実現したいなぁと決意して、銀行から借金をして(銀行には教え子がいた)、日本一の空手道場建設を目指して、昭和61年1月から設計着手(建築士に教え子がいた)、4月工事開始、併行して協賛金募集、秋から新規道場生募集、そして遂に12月14日完成!

 前夜、道場の真ん中で、大の字になって寝た。空手道に志した男のロマン、実現の瞬間であった。

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2016年12月19日 金婚式を迎えて =波乱万丈の半生記=  波乱万丈その三

宇野小学校6年目のある春、ある一流の大手建築会社から、「課長待遇、年収現行給与の2倍」の条件を提示され、三顧の礼を以て転職を奨められたのであります。大学の後輩が、不肖私を推薦し、支店長、営業部長、経理部長と後輩の4名が、しばしば自宅まで足を運んで下さり、企業の将来性や待遇向上について、説得し続けるものですから、逡巡することおよそ1年、丁重にお断りを申し上げました。

その経過の中で、教師道とは何か。教師の生き様はどうか。金儲けに代わる価値とは何か。教師が築く財産とは何か。等々を学ぶことができました。経済界の風雪に耐えながら、なお夢に向かって格闘し続ける民間企業の厳しさや、建築という形ある物を後世に残すやり甲斐がある、と言う語らいの中で、いよいよ教師としての思想堅固にすることができた体験であったと痛感しました。この経験は、飢えた旅人への水のように、以後の学級経営に大いに役立ったのであります。

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はたようじ 波多洋治

はたようじ 波多洋治

自由民主党公認岡山県会議員

昭和18年9月14日 島根県隠岐島生れ

住所/岡山県岡山市北区白石65-3

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