2016年01月22日 「君が代」に寄せて
はや2016年の1月も下旬になりました。良い年をお迎えでしょうか。
昔は、数え年という考え方がありました。生まれた時を1歳と数え、年があけて1月1日になればもう一つ年をとります。おじいちゃんもおばあちゃんも、子どもや孫も同じように、1月1日に「また一つ年を取ったね」と言いあっておりました。1月1日は、まさに民族の誕生日というお祝いの日だったのであります。
今は個人主義の時代となって、個人の誕生日にお祝いするという姿に変わりましたから、1月1日は単なる1月1日となってしまいました。私としては日本人の民族性にそぐわないと思うのですが、どうでしょうか。
さて、今日は我が国の国歌「君が代」のお話をしましょう。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、「君が代」は古今和歌集に読み人知らずの歌として収められている和歌、恋の歌であります。天皇陛下を称える歌といわれていますけれども、天皇陛下は大君と表されるのであり、君とは、あなた様という意味であります。
あなた様の代が千代に八千代に、千年も二千年も続きますように。川の流れにせきどまった小砂利が小さな石となり、それがだんだん積み重なって大きな石になり大きな岩になる。そこに苔が生えるまで、どうぞあなた様もお幸せにお元気で、という願いがこめられている、いわば、祈りの歌なのであります。
また、「君が代」の物静かで荘厳荘重なあり様は、他国の国歌にみられないものでありましょう。
といいますのも、国の成り立ちを見てみますと、他国と国境を接している国は特にですが、領土の侵略や奪還をするとか、支配するとかされるとか、そういう歴史を繰り返してきております。国歌には、そのような血で血を洗うような戦いを自分たちは勝ち抜いてきたという、民族の団結や誇りなどを歌い上げるまことに勇壮なものが多く見られます。
しかしながら、我が国の国歌は、「ただひたすらにあなた様の幸せを祈り申し上げます」という祈りの歌なのであります。私たち日本人は、「君が代」をもっと誇りを持って歌わなければなりません。
私は、君が代を歌わない子ども達が増えていることに、いつも一抹の不安と寂しさを感じています。学校の入学式や卒業式を、立派な日本の国の民を育てる荘厳な儀式として捉えてみますと、国家の一員として成長し立派な日本人になるという、いわば祈りや誓いの儀なのであります。
それは単に人生の一里塚、通過点に過ぎませんけれども、この時にこそ心を引き締めて、立派な日本人になるんだと確認をしたり決意をしたりする日でもありましょう。ですから、国をあげてお祝いする日だと考えても間違いないのだと思うのであります。
私は、空手道というスポーツの指導者の一人でありますけれども、スポーツ大会開会式の国歌斉唱の際にも、子どもたちが胸を張って堂々と国歌を歌えるようになってほしいなあと、いつも思っています。
かつて、大学生と一緒に空手道の親善大会をするためメキシコに遠征をした時、思い出深い経験をいたしました。親善大会が開催された広い体育館には、大勢のメキシコの人達が集まっておりました。開会式が始まって、互いの国歌斉唱となった時にメキシコ国歌を歌う時は観客の全てが起立をして、胸に手を当てて「メヒカナ!」と叫び、国歌を歌うのですけれども、その迫力たるや凄まじいものがあります。
私達は、わずか20名くらいの日本人と日本の選手団でありまして、広い会場の中、国歌斉唱の時にこれだけの人数で歌わなければならず皆心細く感じていたものです。そこで、私は学生たちに、「力いっぱい国歌を歌おう。君が代を歌おう」と伝え、一緒に歌ったのです。
開会式が終わった後、生徒の一人が私の元へやってきました。そして、「君が代を力いっぱい歌っていたら、遠く離れた日本の人たちが背中を押してくれているような気持ちになりました」と言いました。「異国の地で堂々と国歌を歌うことによって、遠く離れた祖国日本とつながっていて、目に見えない後押しをしてくれていると感じられた。自分一人だけではない。日本の国民が応援してくれていると、そんな想いになった」と、そのような感想を聞いて、私は感動しました。
国歌とは、そういうものだと思うのであります。日本の国民が後押しをしているんだよ、頑張れよと、そういうメッセージを持っているのではないのでしょうか。国歌斉唱は、機会があれば堂々と胸を張って歌えるようになりたいなという思いでおります。
昔は、数え年という考え方がありました。生まれた時を1歳と数え、年があけて1月1日になればもう一つ年をとります。おじいちゃんもおばあちゃんも、子どもや孫も同じように、1月1日に「また一つ年を取ったね」と言いあっておりました。1月1日は、まさに民族の誕生日というお祝いの日だったのであります。
今は個人主義の時代となって、個人の誕生日にお祝いするという姿に変わりましたから、1月1日は単なる1月1日となってしまいました。私としては日本人の民族性にそぐわないと思うのですが、どうでしょうか。
さて、今日は我が国の国歌「君が代」のお話をしましょう。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、「君が代」は古今和歌集に読み人知らずの歌として収められている和歌、恋の歌であります。天皇陛下を称える歌といわれていますけれども、天皇陛下は大君と表されるのであり、君とは、あなた様という意味であります。
あなた様の代が千代に八千代に、千年も二千年も続きますように。川の流れにせきどまった小砂利が小さな石となり、それがだんだん積み重なって大きな石になり大きな岩になる。そこに苔が生えるまで、どうぞあなた様もお幸せにお元気で、という願いがこめられている、いわば、祈りの歌なのであります。
また、「君が代」の物静かで荘厳荘重なあり様は、他国の国歌にみられないものでありましょう。
といいますのも、国の成り立ちを見てみますと、他国と国境を接している国は特にですが、領土の侵略や奪還をするとか、支配するとかされるとか、そういう歴史を繰り返してきております。国歌には、そのような血で血を洗うような戦いを自分たちは勝ち抜いてきたという、民族の団結や誇りなどを歌い上げるまことに勇壮なものが多く見られます。
しかしながら、我が国の国歌は、「ただひたすらにあなた様の幸せを祈り申し上げます」という祈りの歌なのであります。私たち日本人は、「君が代」をもっと誇りを持って歌わなければなりません。
私は、君が代を歌わない子ども達が増えていることに、いつも一抹の不安と寂しさを感じています。学校の入学式や卒業式を、立派な日本の国の民を育てる荘厳な儀式として捉えてみますと、国家の一員として成長し立派な日本人になるという、いわば祈りや誓いの儀なのであります。
それは単に人生の一里塚、通過点に過ぎませんけれども、この時にこそ心を引き締めて、立派な日本人になるんだと確認をしたり決意をしたりする日でもありましょう。ですから、国をあげてお祝いする日だと考えても間違いないのだと思うのであります。
私は、空手道というスポーツの指導者の一人でありますけれども、スポーツ大会開会式の国歌斉唱の際にも、子どもたちが胸を張って堂々と国歌を歌えるようになってほしいなあと、いつも思っています。
かつて、大学生と一緒に空手道の親善大会をするためメキシコに遠征をした時、思い出深い経験をいたしました。親善大会が開催された広い体育館には、大勢のメキシコの人達が集まっておりました。開会式が始まって、互いの国歌斉唱となった時にメキシコ国歌を歌う時は観客の全てが起立をして、胸に手を当てて「メヒカナ!」と叫び、国歌を歌うのですけれども、その迫力たるや凄まじいものがあります。
私達は、わずか20名くらいの日本人と日本の選手団でありまして、広い会場の中、国歌斉唱の時にこれだけの人数で歌わなければならず皆心細く感じていたものです。そこで、私は学生たちに、「力いっぱい国歌を歌おう。君が代を歌おう」と伝え、一緒に歌ったのです。
開会式が終わった後、生徒の一人が私の元へやってきました。そして、「君が代を力いっぱい歌っていたら、遠く離れた日本の人たちが背中を押してくれているような気持ちになりました」と言いました。「異国の地で堂々と国歌を歌うことによって、遠く離れた祖国日本とつながっていて、目に見えない後押しをしてくれていると感じられた。自分一人だけではない。日本の国民が応援してくれていると、そんな想いになった」と、そのような感想を聞いて、私は感動しました。
国歌とは、そういうものだと思うのであります。日本の国民が後押しをしているんだよ、頑張れよと、そういうメッセージを持っているのではないのでしょうか。国歌斉唱は、機会があれば堂々と胸を張って歌えるようになりたいなという思いでおります。
- |徒然
岡山県の活性化のために一人でも多くの方とふれあい、たくさんのご意見をお聞きしたいと思います。