2016年04月11日 沖縄本島の視察に行ってまいりました!
3月23日から25日、岡山県議会防衛議員連盟で沖縄本島の視察に行ってまいりました。
3月23日、最初に沖縄平和祈念公園を訪れ、岡山の塔を参拝しました。先の沖縄戦で散華された英霊の皆様に哀悼の誠を捧げるとともに、二度と再び戦争が起こらない平和な日本国家建設に向けて決意を新たにしたところです。
その後、対馬丸記念館を見学いたしました。昭和19年、戦争の激しさが日増しに迫ってくるなか、お年寄りの方や子ども達、女性達を県外に疎開させるよう指示されておりました。8月21日、対馬丸は学童の集団疎開のため、たくさんの子ども達を乗せて那覇港を出港しました。
しかし、制海権はすでにアメリカに握られており、アメリカの潜水艦ボーフィン号に魚雷攻撃により沈没させられ、乗船者1‚788名の人々が海底へ消えてしまいました。
対馬丸記念館は財団法人が運営をしており、財団を支える会員と会費を募集しております。この点について、私は違和感を抱きました。なぜならば、今年の正月にホノルルを訪れた際に見た、昭和16年12月8日に日本軍により真珠湾攻撃で沈没された米戦艦アリゾナ号のことを思い出したからであります。
アリゾナ号は、いまだホノルル港に沈められたままの状態で今日なお残されております。そして、戦艦に対して十字架になるような観覧場所が設置され、多くの日本人観光客をはじめ世界の観光客が見学しています。そして、「リメンバー パールハーバー」を合い言葉に、アメリカならびにハワイ州が管理運営しています。
このことを思えば、対馬丸記念館は国家が管理してしかるべきではないでしょうか。一財団法人が運営するような形にしていること自体、まことに、戦後処理の甘さがあると思います。真に独立国家・主権国家日本であるならば、国家がきちんと検証するべきことであり、世界に対してアメリカ軍の非人道的無差別な殺戮に対して抗議するべきだと思います。
24日は、海上自衛隊那覇基地と陸上自衛隊那覇駐屯基地、米海兵隊普天間飛行場、そして、25日に、キャンプ・シュワブと辺野古地区を視察いたしました。
アメリカ軍の司令官が自ら説明に立ち、我々の質問を受けてくれました。私は、司令官に対し、まず、「我が国の平和と安全にアメリカ軍が多大な貢献をしていることに感謝をしています。とりわけ石油をアラビア海に依存している日本にとって、シーレーンが安全に確保されているということはアメリカ軍のおかげであり、心から感謝を申し上げます」と、御礼を申しました。続いて、「尖閣列島に中国侵略が及ぶとアメリカ軍は日本を助けるのか」「韓半島で今、米韓共同軍事演習が行なわれており、まことにきな臭い状態にあるが、有事の可能性はあるのか」と、二点を質問させていただきました。
答えは実に明白でありまして、「日本を助けるのは当然である」、そして、「韓半島に有事が起これば、適切に対処する」とのことでありました。
キャンプ・シュワブと普天間飛行場近辺では、大勢の人たちがテントを張り、「アメリカ軍帰れ」と書かれた看板を持ち、マイクで「米軍帰れ」とシュプレヒコールを繰り返していました。連日のごとく反基地闘争が繰り広げられておりますが、アメリカ軍司令官の「名護市の市民は誰もおりません」という言葉が象徴するように、ほとんどの人が県外からのプロの運動家達なのであります。
こういった現実は、メディアではまったく報道されておりません。23日の夜に自民党沖縄県議会の会長や副会長、幹事長と懇親の場を持ちましたけれども、沖縄の敵はメディアにある、という話もおうかがいしました。今日の自由主義社会にあって、偏った報道しかなされないという異常な姿に、憤慨をして帰ってきた次第です。
ところで、24日の夜は、本部町の沖にある伊江島を訪ね、伊江村で民泊をいたしました。ここでは、伊江島観光協会が島外からの観光客を迎え入れる民泊事業を行っています。山城克己さんという方が島の活性化のため始められたのですが、当初はなかなか理解が得られず、ずいぶん苦労されたそうです。
はじめに伊江村を訪れたのは、大阪の私立中学校の修学旅行生でした。一つの受け入れ民家で3・4名の生徒を預かるわけですが、中には、夜に出歩いたり門限を守らなかったりするなど、言うことを聞かず勝手な振るまいや行動をし、民泊のおじさんから説教をされたりげんこつを落とされたりした生徒もいたそうです。修学旅行生が帰ったあと、民泊事業に当たった人達は山城さんを攻撃し、二度とやらないという答えが返ってきたといいます。
それから1ヶ月たった頃、大阪の私立中学校の先生から電話が入り、「3つのお話がありますので、これから島に教師達でうかがいたい」というお話がありました。山城さんは、民泊にあたった人や観光協会の人達に集まってもらい、先生達の話を聞くことにしました。
お話の一つ目は、「修学旅行にご協力いただきありがとうございました」という御礼でした。二つ目のお話は、感謝の言葉でした。生徒達が大阪に帰ったのち、修学旅行に参加しなかった先生達に島の体験談を語るようになり、「すごく良かった。すごく楽しかった。涙の体験をした」など、そんなお話をはじめたそうです。今まで荒れていて学校崩壊寸前の中学校が、ひとつの修学旅行を機会に再建できつつあるということに、教師達は感動しました。三つ目は、来年もぜひこの地に修学旅行に来させたいので、ぜひ引き受けて欲しいというお願いでした。
民泊に取り組んだ人達は、これらの話を聞き、良かったな、意味があったんだなと思われたそうです。そして、伊江村の民泊事業は、次代を担う子ども達の教育事業でもあるということに気が付きました。以来、積極的に取り組み、年間3万人前後の人々を受け入れるようになり、経済波及効果は約10億円という事業に成長しました。
翌朝は雨の中、私達が島を離れるとき、お世話になった宿やの皆さんや、観光協会の皆さんが、大漁旗や「いってらっしゃいませ」と書かれた大きな垂れ幕を下げて、船が港を離れるまで見送ってくれました。伊江村の人達の温かさが中学生を感動させ、島を訪れる人達に、「また来たい」という想いを抱かせているのだと思います。
3月23日、最初に沖縄平和祈念公園を訪れ、岡山の塔を参拝しました。先の沖縄戦で散華された英霊の皆様に哀悼の誠を捧げるとともに、二度と再び戦争が起こらない平和な日本国家建設に向けて決意を新たにしたところです。
その後、対馬丸記念館を見学いたしました。昭和19年、戦争の激しさが日増しに迫ってくるなか、お年寄りの方や子ども達、女性達を県外に疎開させるよう指示されておりました。8月21日、対馬丸は学童の集団疎開のため、たくさんの子ども達を乗せて那覇港を出港しました。
しかし、制海権はすでにアメリカに握られており、アメリカの潜水艦ボーフィン号に魚雷攻撃により沈没させられ、乗船者1‚788名の人々が海底へ消えてしまいました。
対馬丸記念館は財団法人が運営をしており、財団を支える会員と会費を募集しております。この点について、私は違和感を抱きました。なぜならば、今年の正月にホノルルを訪れた際に見た、昭和16年12月8日に日本軍により真珠湾攻撃で沈没された米戦艦アリゾナ号のことを思い出したからであります。
アリゾナ号は、いまだホノルル港に沈められたままの状態で今日なお残されております。そして、戦艦に対して十字架になるような観覧場所が設置され、多くの日本人観光客をはじめ世界の観光客が見学しています。そして、「リメンバー パールハーバー」を合い言葉に、アメリカならびにハワイ州が管理運営しています。
このことを思えば、対馬丸記念館は国家が管理してしかるべきではないでしょうか。一財団法人が運営するような形にしていること自体、まことに、戦後処理の甘さがあると思います。真に独立国家・主権国家日本であるならば、国家がきちんと検証するべきことであり、世界に対してアメリカ軍の非人道的無差別な殺戮に対して抗議するべきだと思います。
24日は、海上自衛隊那覇基地と陸上自衛隊那覇駐屯基地、米海兵隊普天間飛行場、そして、25日に、キャンプ・シュワブと辺野古地区を視察いたしました。
アメリカ軍の司令官が自ら説明に立ち、我々の質問を受けてくれました。私は、司令官に対し、まず、「我が国の平和と安全にアメリカ軍が多大な貢献をしていることに感謝をしています。とりわけ石油をアラビア海に依存している日本にとって、シーレーンが安全に確保されているということはアメリカ軍のおかげであり、心から感謝を申し上げます」と、御礼を申しました。続いて、「尖閣列島に中国侵略が及ぶとアメリカ軍は日本を助けるのか」「韓半島で今、米韓共同軍事演習が行なわれており、まことにきな臭い状態にあるが、有事の可能性はあるのか」と、二点を質問させていただきました。
答えは実に明白でありまして、「日本を助けるのは当然である」、そして、「韓半島に有事が起これば、適切に対処する」とのことでありました。
キャンプ・シュワブと普天間飛行場近辺では、大勢の人たちがテントを張り、「アメリカ軍帰れ」と書かれた看板を持ち、マイクで「米軍帰れ」とシュプレヒコールを繰り返していました。連日のごとく反基地闘争が繰り広げられておりますが、アメリカ軍司令官の「名護市の市民は誰もおりません」という言葉が象徴するように、ほとんどの人が県外からのプロの運動家達なのであります。
こういった現実は、メディアではまったく報道されておりません。23日の夜に自民党沖縄県議会の会長や副会長、幹事長と懇親の場を持ちましたけれども、沖縄の敵はメディアにある、という話もおうかがいしました。今日の自由主義社会にあって、偏った報道しかなされないという異常な姿に、憤慨をして帰ってきた次第です。
ところで、24日の夜は、本部町の沖にある伊江島を訪ね、伊江村で民泊をいたしました。ここでは、伊江島観光協会が島外からの観光客を迎え入れる民泊事業を行っています。山城克己さんという方が島の活性化のため始められたのですが、当初はなかなか理解が得られず、ずいぶん苦労されたそうです。
はじめに伊江村を訪れたのは、大阪の私立中学校の修学旅行生でした。一つの受け入れ民家で3・4名の生徒を預かるわけですが、中には、夜に出歩いたり門限を守らなかったりするなど、言うことを聞かず勝手な振るまいや行動をし、民泊のおじさんから説教をされたりげんこつを落とされたりした生徒もいたそうです。修学旅行生が帰ったあと、民泊事業に当たった人達は山城さんを攻撃し、二度とやらないという答えが返ってきたといいます。
それから1ヶ月たった頃、大阪の私立中学校の先生から電話が入り、「3つのお話がありますので、これから島に教師達でうかがいたい」というお話がありました。山城さんは、民泊にあたった人や観光協会の人達に集まってもらい、先生達の話を聞くことにしました。
お話の一つ目は、「修学旅行にご協力いただきありがとうございました」という御礼でした。二つ目のお話は、感謝の言葉でした。生徒達が大阪に帰ったのち、修学旅行に参加しなかった先生達に島の体験談を語るようになり、「すごく良かった。すごく楽しかった。涙の体験をした」など、そんなお話をはじめたそうです。今まで荒れていて学校崩壊寸前の中学校が、ひとつの修学旅行を機会に再建できつつあるということに、教師達は感動しました。三つ目は、来年もぜひこの地に修学旅行に来させたいので、ぜひ引き受けて欲しいというお願いでした。
民泊に取り組んだ人達は、これらの話を聞き、良かったな、意味があったんだなと思われたそうです。そして、伊江村の民泊事業は、次代を担う子ども達の教育事業でもあるということに気が付きました。以来、積極的に取り組み、年間3万人前後の人々を受け入れるようになり、経済波及効果は約10億円という事業に成長しました。
翌朝は雨の中、私達が島を離れるとき、お世話になった宿やの皆さんや、観光協会の皆さんが、大漁旗や「いってらっしゃいませ」と書かれた大きな垂れ幕を下げて、船が港を離れるまで見送ってくれました。伊江村の人達の温かさが中学生を感動させ、島を訪れる人達に、「また来たい」という想いを抱かせているのだと思います。
- |県政
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