2016年05月13日 金婚式! 結婚満50年を迎えます
4月24日、山陽新聞社が主催する金婚夫婦のお祝いの集いがあり、今年で結婚満50年を迎える私達も参加をしてまいりました。
思い起こせば50年前、昭和41年のことですが、大学を卒業して間もない秋に家内と結婚をいたしました。早くも50年になるという、まことに不思議な時間の経過を振り返っています。
石原裕次郎やビートルズが一世を風靡した時代でした。私はといえば、教師になったばかりの年でありましたので、脇目もふらず教師家業に打ち込んでいました。しかし、赴任した新見市の学校では、教師達が朝礼時にまったく姿を見せず高梁川の河原で集会をしていることがしばしばあり、新米教師の私は慌てふためいておりました。
当時、大学の友人4人と下宿生活をしておりましたが、みな同じような感想を持っていました。それは、子ども達を犠牲にするデモやストライキは許せない、そんな思いでありました。4人の仲間達と組合活動の在り方を批判し、ついに、私達は脱退届を提出するにいたりました。私達は県下の小中学校の校長宛にも、同じ趣旨の脱退声明文を送りました。その翌日の地元新聞には、「組合活動はいやだ」という大きな見出しで一面の記事が掲載されておりました。
それ以降、私達は激しい組合活動の攻撃にさらされました。時には、オルグなど組合活動の皆さんが訪ねてこられ、怒鳴られたり脅されたりするようなことが起こりました。組合によるすさまじい反撃であり、我々4人は孤立無援の戦いを強いられることになりました。ついに、その厳しい攻撃に耐えることができず、3人の仲間は復帰をすることに及びました。私1人は頑として戦いましたけれども、その精神的な強さは、空手道部4年間の修行の成果であったのでしょう。家内と結婚式を挙げたのは、脱退直後のそのような時期でした。
新見から岡山に帰るとき、石蟹駅のホームにクラスの子ども達が全員集合して見送ってくれました。子ども達の温かさとありがたさに涙をこぼしたことを、今でもはっきりと覚えています。子どもこそ、教師の全てであります。子どもから勇気をもらい、子どもに支えられ、以後36年間の教師生活を頑張ることができたのだと思っています。
家内も小学校の教師でありましたので、二人三脚で教師という仕事を頑張ってきたと思います。しかし、頑張れば頑張るほど、家庭や家族を犠牲にする仕事だなあということがよく分かりました。二人の子どもの入学式や卒業式には、結局、私も家内も出席することはありませんでした。私達に代わって家庭や家族を守ったのは、他ならぬ家内の母親でありました。ある意味、安心してよそ様のお子さんに全力を傾注できたのも、帰る港である家庭が、母によってきちんと守られていたという安心感のおかげでありました。
平成14年3月に、私も家内も教職を去ることになりました。この36年間、教え子の結婚式では、45組の仲人をいたしました。教師冥利につきるとは、まさしくこのことであります。夫婦としては、教え子から尊敬されるような私達ではないとは思っていましたけれども、人生の一大イベントである結婚式の仲人を頼まれたということは、それなりに、私達夫婦を安心して見てくれ、お願いしてもいいのかなあという印象を持っていたのではないかと思います。
私は、59歳の時に人生の方向転換をし、教師から県会議員という道を歩むことになりました。ここでも、教え子達に支えられ励まされている姿は、いささかも変わることはありません。と同時に、その教え子達がいつも明るく笑顔で幸せになる社会を作っていくことが、私の大きな使命であると思っています。
結婚50年を迎えた金婚式とはいえ、長い人生の通過点にしか過ぎません。改めて、これからの人生における夫婦の有様、在り方を考えるとき、何も変わることはありません。お互いにそれぞれの人生を理解し、支えあっていくという生き様は、これからも変わらず続くことでしょう。
ただ、私も家内もすでに両親はいなくなりました。後に続く子ども達のためにも、私達夫婦が元気で力を合わせて生きていくことが、子ども達を守ることになるのではないかという気がしております。10月16日が私達の結婚記念日です。今年は、長男を実行委員長として、家族揃ってお祝いしてくれるそうです。今から楽しみに待っております。
思い起こせば50年前、昭和41年のことですが、大学を卒業して間もない秋に家内と結婚をいたしました。早くも50年になるという、まことに不思議な時間の経過を振り返っています。
石原裕次郎やビートルズが一世を風靡した時代でした。私はといえば、教師になったばかりの年でありましたので、脇目もふらず教師家業に打ち込んでいました。しかし、赴任した新見市の学校では、教師達が朝礼時にまったく姿を見せず高梁川の河原で集会をしていることがしばしばあり、新米教師の私は慌てふためいておりました。
当時、大学の友人4人と下宿生活をしておりましたが、みな同じような感想を持っていました。それは、子ども達を犠牲にするデモやストライキは許せない、そんな思いでありました。4人の仲間達と組合活動の在り方を批判し、ついに、私達は脱退届を提出するにいたりました。私達は県下の小中学校の校長宛にも、同じ趣旨の脱退声明文を送りました。その翌日の地元新聞には、「組合活動はいやだ」という大きな見出しで一面の記事が掲載されておりました。
それ以降、私達は激しい組合活動の攻撃にさらされました。時には、オルグなど組合活動の皆さんが訪ねてこられ、怒鳴られたり脅されたりするようなことが起こりました。組合によるすさまじい反撃であり、我々4人は孤立無援の戦いを強いられることになりました。ついに、その厳しい攻撃に耐えることができず、3人の仲間は復帰をすることに及びました。私1人は頑として戦いましたけれども、その精神的な強さは、空手道部4年間の修行の成果であったのでしょう。家内と結婚式を挙げたのは、脱退直後のそのような時期でした。
新見から岡山に帰るとき、石蟹駅のホームにクラスの子ども達が全員集合して見送ってくれました。子ども達の温かさとありがたさに涙をこぼしたことを、今でもはっきりと覚えています。子どもこそ、教師の全てであります。子どもから勇気をもらい、子どもに支えられ、以後36年間の教師生活を頑張ることができたのだと思っています。
家内も小学校の教師でありましたので、二人三脚で教師という仕事を頑張ってきたと思います。しかし、頑張れば頑張るほど、家庭や家族を犠牲にする仕事だなあということがよく分かりました。二人の子どもの入学式や卒業式には、結局、私も家内も出席することはありませんでした。私達に代わって家庭や家族を守ったのは、他ならぬ家内の母親でありました。ある意味、安心してよそ様のお子さんに全力を傾注できたのも、帰る港である家庭が、母によってきちんと守られていたという安心感のおかげでありました。
平成14年3月に、私も家内も教職を去ることになりました。この36年間、教え子の結婚式では、45組の仲人をいたしました。教師冥利につきるとは、まさしくこのことであります。夫婦としては、教え子から尊敬されるような私達ではないとは思っていましたけれども、人生の一大イベントである結婚式の仲人を頼まれたということは、それなりに、私達夫婦を安心して見てくれ、お願いしてもいいのかなあという印象を持っていたのではないかと思います。
私は、59歳の時に人生の方向転換をし、教師から県会議員という道を歩むことになりました。ここでも、教え子達に支えられ励まされている姿は、いささかも変わることはありません。と同時に、その教え子達がいつも明るく笑顔で幸せになる社会を作っていくことが、私の大きな使命であると思っています。
結婚50年を迎えた金婚式とはいえ、長い人生の通過点にしか過ぎません。改めて、これからの人生における夫婦の有様、在り方を考えるとき、何も変わることはありません。お互いにそれぞれの人生を理解し、支えあっていくという生き様は、これからも変わらず続くことでしょう。
ただ、私も家内もすでに両親はいなくなりました。後に続く子ども達のためにも、私達夫婦が元気で力を合わせて生きていくことが、子ども達を守ることになるのではないかという気がしております。10月16日が私達の結婚記念日です。今年は、長男を実行委員長として、家族揃ってお祝いしてくれるそうです。今から楽しみに待っております。
- |徒然
岡山県の活性化のために一人でも多くの方とふれあい、たくさんのご意見をお聞きしたいと思います。