2016年06月22日 隠岐の島に研修視察に行ってまいりました!
5月30から2泊3日で、県議2名と市議5名、合計7名で隠岐の島に研修視察に行ってまいりました。
隠岐の島には有人島が4つあります。「島の前」と書いて「ドウゼン」と読む3つの島、「島の後」と書いて「ドウゴ」と読む島です。島前の西ノ島町・海士町・知夫里村、そして、道後の隠岐の島町、3町1村から成り立っています。もともとは、道の前・道の後と書きまして、山陰道から見て京都に近いほうが道の前、遠いほうが道の後となっておりました。
5月30日に島前の西ノ島町に入りますと、門脇君という岡山大学の2期後輩、北津寮の後輩が出迎えてくれました。彼は、昨年3月に西ノ島町の副町長を引退したのですけれども、3期12年間、副町長として活躍をいたしました。
門脇君の案内で、まず、玉若酢命神社にお詣りいたしました。隠岐造の本殿がありまして、その入口のところに、樹齢1200年から1300年になる八百杉があります。八百杉には様々な云い伝えがあり、尼僧が、「諸国を行脚して800年たったら、この島にもう一度来るからね」と植えたといわれております。
玉若酢命神社の隣には、神社の宮司さんで隠岐国造の末裔である億岐家があります。宝物殿には、国の重要文化財に指定されている駅鈴(えきれい)と、億伎倉印(おきそういん)という印鑑が納められています。駅鈴とは、国の使いである国造が、この駅鈴を持って郵便のような働きをする際の公の証であり、大変貴重なものです。また、隠岐の国が昔から栄えていた証でもあります。
続いて、国分寺にお参りいたしました。昨年、本堂が新しく建立されて再建されたばかりだそうです。国分寺は、後醍醐天皇がお流された時に、行在所としてお住まいになっていたといわれています。しかし、必ずあるはずの文献や伝説といった類のものが、一切伝わっておりません。私自身は、後醍醐天皇はこの地にお住まいになっていない、そういう思いがあります。西ノ島町には黒木御所というところがありまして、後醍醐天皇はそこにお流されになったと、私は確信しています。
その後、名水100選に選ばれている壇鏡の滝を視察しました。滝を裏から見られる祠があり、私達はしばし瞑想にふけりました。
夕方になりますと、福浦港から船に乗り、ローソク島の夕日の遊覧に出かけました。船頭さんは福浦さんといいまして、その息子さんのお嫁さんが私の姪であります。大変懐かしくお話をしました。と同時に、別に観光に来られていたお客様の中に空手の先輩がおり、偶然の出会いにびっくりいたしました。
残念ながら、今回は、雲間から漏れる夕日がローソク島の頂点と重なるという偶然は得ることができませんでした。福浦のおじさんは、私達のために、なんとか美しいローソク島の夕日を見せてやりたいという思いで懸命に操縦してくれ、感謝しております。
その夜は、岩牡蠣やあわび、さざえやのどぐろなど、隠岐の魚介類をバーベキューで堪能いたしました。
翌日は、フェリーで島前に渡りました。昼食には、最近はなかなか食べられず、幻といわれる隠岐牛に舌鼓を打ちました。それから船に乗り、知夫里島に渡りました。知夫里島では、ざっくりとえぐられた赤茶色の岩肌を見せる赤壁のほぼ真上に立って、吸い込まれるような気分を味わいました。そして、そこから赤ハゲ山の頂上に登りました。
通常ですと、頂上から360度の景色が見られるのですが、視界数メートルという霧に包まれて、まったく何も見えない状況でありました。「次にまた来ようね」と課題が残され、それも意味があったのかなあと思っております。
その夜は、隠岐島前高校の隠岐國学習センター所長、文部省から派遣されている地域魅力化コーディネーター、地元役場の地産地消課長、Iターンでぶどう作りに挑戦している人、そして、海士町議会副議長の兄も一緒に、海士町の活性化策について意見交換をいたしました。
海士町のテーマは、「ないものはない」であります。「なくてもよいものはない、必要なものは全てある」という意味で、Iターンの若者たちの自立と挑戦、交流を推進しています。かつては若者が出て行って帰らないと嘆いていた海士町ですが、今や、5年で202人のIターンを迎え、住宅建築ラッシュです。島外から優秀な頭脳をいかにして呼びこむかという策を打ち出しており、そのチャレンジ精神と取り組みたるや素晴らしいものがあると、感心をいたします。
しおかぜファームという隠岐牛の生産出荷にあたっている組織、セルアライブシステムという細胞を凍結するCAS凍結センター、承久海道キンニャモニャセンターや、海士乃塩を造る海士御塩司所など、これらの施設は全て公設民営であります。つまり、公が資本を提供し施設を作り、民間の智恵と力を活用していくことで、ことごとく成功してきたのです。
役場は、町民・住民に対して、役に立つ場所である。つまり、役場の原点である現場主義に立ち返り、株式会社海士町役場という発想で現場の住民の思いを第一に考え、行政と施策を行い、公共サービスを提供しています。行政の世界は、ややもすると、年功序列というか、縦割り行政といったようなことが横行しております。ところが、海士町では、現場主義という立場に立ち、縦割り行政の仕組みを排除し年功序列制度を廃し、適材適所の策などを打ち出してきました。そのような意識改革に成功したというところが、一番素晴らしいところかなあと思います。
三日目は、海士町の後鳥羽上皇を御祭神とする隠岐神社へお詣りし、その後、金光寺にお参りしました。副遣唐使の小野篁(おののたかむら)を知っていますか。小野小町のお祖父さんと言ったほうが分かるでしょうか。小野篁は隠岐の島に流され、金光寺の六社権現に100日の願をかけたといわれています。
金光寺の公衆トイレには、お筥所(おはこどころ)という立て看板があります。まさに宮中言葉です。名前から察するように海士町と宮中との関わりが忍ばれます。この他にも、この島にはたくさんの宮中言葉が残されているといわれています。
その後、国賀海岸を散策し、国賀めぐりに出発しました。この日は海が荒れており、日本海の荒波に洗われた延々と続く断崖絶壁を船から眺めました。かのアルプスト登攀者も克服できないという、257mの大絶壁の摩天崖は誠に壮観でありました。
中山間地域の活性化や、村おこし・町おこしにあたっている人は、一度は海士町を訪ねてみるといいと思います。なぜ、隠岐島前高校の魅力化事業が成功したのか、その取り組みを学ぶことは非常に役に立つと思います。
隠岐島前高校は、去年、今年と、島根の県立高校で最高の倍率を誇りました。進学率も素晴らしく、国公立大学をはじめ、慶応大学や早稲田大学へと進学しています。また、今年は50年ぶりに岡山大学へ入学した後輩が誕生しました。高校では、寮も完備されています。寮費が食事付で1ヶ月2万円なのです。また、進学から就職まで一番の鍵を握っているのは、公立の隠岐國学習センターでありまして、月謝は1万円です。3万円あれば、高校生活が満喫できるという環境を整えているのです。
隠岐の島には有人島が4つあります。「島の前」と書いて「ドウゼン」と読む3つの島、「島の後」と書いて「ドウゴ」と読む島です。島前の西ノ島町・海士町・知夫里村、そして、道後の隠岐の島町、3町1村から成り立っています。もともとは、道の前・道の後と書きまして、山陰道から見て京都に近いほうが道の前、遠いほうが道の後となっておりました。
5月30日に島前の西ノ島町に入りますと、門脇君という岡山大学の2期後輩、北津寮の後輩が出迎えてくれました。彼は、昨年3月に西ノ島町の副町長を引退したのですけれども、3期12年間、副町長として活躍をいたしました。
門脇君の案内で、まず、玉若酢命神社にお詣りいたしました。隠岐造の本殿がありまして、その入口のところに、樹齢1200年から1300年になる八百杉があります。八百杉には様々な云い伝えがあり、尼僧が、「諸国を行脚して800年たったら、この島にもう一度来るからね」と植えたといわれております。
玉若酢命神社の隣には、神社の宮司さんで隠岐国造の末裔である億岐家があります。宝物殿には、国の重要文化財に指定されている駅鈴(えきれい)と、億伎倉印(おきそういん)という印鑑が納められています。駅鈴とは、国の使いである国造が、この駅鈴を持って郵便のような働きをする際の公の証であり、大変貴重なものです。また、隠岐の国が昔から栄えていた証でもあります。
続いて、国分寺にお参りいたしました。昨年、本堂が新しく建立されて再建されたばかりだそうです。国分寺は、後醍醐天皇がお流された時に、行在所としてお住まいになっていたといわれています。しかし、必ずあるはずの文献や伝説といった類のものが、一切伝わっておりません。私自身は、後醍醐天皇はこの地にお住まいになっていない、そういう思いがあります。西ノ島町には黒木御所というところがありまして、後醍醐天皇はそこにお流されになったと、私は確信しています。
その後、名水100選に選ばれている壇鏡の滝を視察しました。滝を裏から見られる祠があり、私達はしばし瞑想にふけりました。
夕方になりますと、福浦港から船に乗り、ローソク島の夕日の遊覧に出かけました。船頭さんは福浦さんといいまして、その息子さんのお嫁さんが私の姪であります。大変懐かしくお話をしました。と同時に、別に観光に来られていたお客様の中に空手の先輩がおり、偶然の出会いにびっくりいたしました。
残念ながら、今回は、雲間から漏れる夕日がローソク島の頂点と重なるという偶然は得ることができませんでした。福浦のおじさんは、私達のために、なんとか美しいローソク島の夕日を見せてやりたいという思いで懸命に操縦してくれ、感謝しております。
その夜は、岩牡蠣やあわび、さざえやのどぐろなど、隠岐の魚介類をバーベキューで堪能いたしました。
翌日は、フェリーで島前に渡りました。昼食には、最近はなかなか食べられず、幻といわれる隠岐牛に舌鼓を打ちました。それから船に乗り、知夫里島に渡りました。知夫里島では、ざっくりとえぐられた赤茶色の岩肌を見せる赤壁のほぼ真上に立って、吸い込まれるような気分を味わいました。そして、そこから赤ハゲ山の頂上に登りました。
通常ですと、頂上から360度の景色が見られるのですが、視界数メートルという霧に包まれて、まったく何も見えない状況でありました。「次にまた来ようね」と課題が残され、それも意味があったのかなあと思っております。
その夜は、隠岐島前高校の隠岐國学習センター所長、文部省から派遣されている地域魅力化コーディネーター、地元役場の地産地消課長、Iターンでぶどう作りに挑戦している人、そして、海士町議会副議長の兄も一緒に、海士町の活性化策について意見交換をいたしました。
海士町のテーマは、「ないものはない」であります。「なくてもよいものはない、必要なものは全てある」という意味で、Iターンの若者たちの自立と挑戦、交流を推進しています。かつては若者が出て行って帰らないと嘆いていた海士町ですが、今や、5年で202人のIターンを迎え、住宅建築ラッシュです。島外から優秀な頭脳をいかにして呼びこむかという策を打ち出しており、そのチャレンジ精神と取り組みたるや素晴らしいものがあると、感心をいたします。
しおかぜファームという隠岐牛の生産出荷にあたっている組織、セルアライブシステムという細胞を凍結するCAS凍結センター、承久海道キンニャモニャセンターや、海士乃塩を造る海士御塩司所など、これらの施設は全て公設民営であります。つまり、公が資本を提供し施設を作り、民間の智恵と力を活用していくことで、ことごとく成功してきたのです。
役場は、町民・住民に対して、役に立つ場所である。つまり、役場の原点である現場主義に立ち返り、株式会社海士町役場という発想で現場の住民の思いを第一に考え、行政と施策を行い、公共サービスを提供しています。行政の世界は、ややもすると、年功序列というか、縦割り行政といったようなことが横行しております。ところが、海士町では、現場主義という立場に立ち、縦割り行政の仕組みを排除し年功序列制度を廃し、適材適所の策などを打ち出してきました。そのような意識改革に成功したというところが、一番素晴らしいところかなあと思います。
三日目は、海士町の後鳥羽上皇を御祭神とする隠岐神社へお詣りし、その後、金光寺にお参りしました。副遣唐使の小野篁(おののたかむら)を知っていますか。小野小町のお祖父さんと言ったほうが分かるでしょうか。小野篁は隠岐の島に流され、金光寺の六社権現に100日の願をかけたといわれています。
金光寺の公衆トイレには、お筥所(おはこどころ)という立て看板があります。まさに宮中言葉です。名前から察するように海士町と宮中との関わりが忍ばれます。この他にも、この島にはたくさんの宮中言葉が残されているといわれています。
その後、国賀海岸を散策し、国賀めぐりに出発しました。この日は海が荒れており、日本海の荒波に洗われた延々と続く断崖絶壁を船から眺めました。かのアルプスト登攀者も克服できないという、257mの大絶壁の摩天崖は誠に壮観でありました。
中山間地域の活性化や、村おこし・町おこしにあたっている人は、一度は海士町を訪ねてみるといいと思います。なぜ、隠岐島前高校の魅力化事業が成功したのか、その取り組みを学ぶことは非常に役に立つと思います。
隠岐島前高校は、去年、今年と、島根の県立高校で最高の倍率を誇りました。進学率も素晴らしく、国公立大学をはじめ、慶応大学や早稲田大学へと進学しています。また、今年は50年ぶりに岡山大学へ入学した後輩が誕生しました。高校では、寮も完備されています。寮費が食事付で1ヶ月2万円なのです。また、進学から就職まで一番の鍵を握っているのは、公立の隠岐國学習センターでありまして、月謝は1万円です。3万円あれば、高校生活が満喫できるという環境を整えているのです。
- |県政
岡山県の活性化のために一人でも多くの方とふれあい、たくさんのご意見をお聞きしたいと思います。