2016年12月21日 金婚式を迎えて =波乱万丈の半生記= 波乱万丈その五
鹿田小学校9年目、僕は全く気が進まなかったが、公務分掌では教務副主任という立場であった。
私の出勤は、いつも1番に来ることだった。朝早く来て、運動場を子供たちと走るのが体育教師の務め、学級経営の柱でありました。朝の運動の中で子供たちの成長を、子供たちとともに喜び合うことでした。
春の日の、とある朝、職員室の行事黒板にスケジュールを書いている時、クラスの子供たちが、どどどーっと職員室に走り込んできました。「出来たよぅ」と叫んでいたので、何が起こったのか、はすぐ分かりました。私が運動場に出ずに、行事黒板にスケジュールを書いている時、鉄棒の逆上がりのできなかったMちゃんが出来るようになった朝だったのです。
子供たちと共に喜び合いましたが、なぜその場におれなかったのか、心の中は申し訳ない気持ちで一杯でした。子供たちの成長を目の当たりに見て、共に喜び合えてこそ、小学校の教師ではありませんか。このまま小学校にいたら、教師でなくなる。私が小学校から高等学校に転勤するという思いに駆られた時であります。
教師なら、子供の前で勝負する。教師なら、子供と共に伸びる。そんな思いがぷつんと切れた時でありました。新たなる職場へ。そして昭和62年4月、9年間勤めた鹿田小学校から、岡山県立岡山工業高校に転勤したのであります。
私の出勤は、いつも1番に来ることだった。朝早く来て、運動場を子供たちと走るのが体育教師の務め、学級経営の柱でありました。朝の運動の中で子供たちの成長を、子供たちとともに喜び合うことでした。
春の日の、とある朝、職員室の行事黒板にスケジュールを書いている時、クラスの子供たちが、どどどーっと職員室に走り込んできました。「出来たよぅ」と叫んでいたので、何が起こったのか、はすぐ分かりました。私が運動場に出ずに、行事黒板にスケジュールを書いている時、鉄棒の逆上がりのできなかったMちゃんが出来るようになった朝だったのです。
子供たちと共に喜び合いましたが、なぜその場におれなかったのか、心の中は申し訳ない気持ちで一杯でした。子供たちの成長を目の当たりに見て、共に喜び合えてこそ、小学校の教師ではありませんか。このまま小学校にいたら、教師でなくなる。私が小学校から高等学校に転勤するという思いに駆られた時であります。
教師なら、子供の前で勝負する。教師なら、子供と共に伸びる。そんな思いがぷつんと切れた時でありました。新たなる職場へ。そして昭和62年4月、9年間勤めた鹿田小学校から、岡山県立岡山工業高校に転勤したのであります。
- |徒然
岡山県の活性化のために一人でも多くの方とふれあい、たくさんのご意見をお聞きしたいと思います。