2016年12月17日 金婚式を迎えて =波乱万丈の半生記= 波乱万丈その一
昭和41年10月16日、妻・豊子との結婚式。式場は護国神社、豊子にとっては父の眠る場所でもありました。以来50年の歳月が流れました。
豊子は三歳の時に、大東亜戦争で父を失い(昭和19年5月14日・北支)、以来、母水畑保子は、まさに女手一つで豊子を育て、地元白石小学校から、附属中学校朝日高校から小学校教師への道を目指して岡山大学に進学。豊子、大学3年生の時に、私との初めての出会いがありました。
それは藤沢教授の歴史臨地研究の視察研修で、京都奈良の古寺巡礼に赴いた時であります。京都に向かう列車の席が、図らずも向かい合うことになり、岡大新聞部、噂にたがわず、かなり手強く、革新的であり、私は、戦争で九死に一生を得た明治生まれの父と、拓殖大学に進学した兄の薫陶を受けて、保守こそが真の革新のなれる、という信念があったので、話は始めから真っ向対立気味。
ほとんど協調も妥協もなく、終始マルクス・レーニンの「唯物論」や「唯物史観」を通した物の見方、考え方の論争でありました。私は、その時、すでにマルクス・レーニン主義はもとより、バークレー僧正の「唯心論」をも超える第三の哲学を説いたのであります。
旅を終えたら、空しさも悔しさもあり、それから自分の思いをぶつける手紙を書き続けました。その数たるや何十何百通にも及ぶものでありました。当然返信もあり、その一つ一つを心に刻みながら、残らずスクラップ帳に張り付けて残したのであります。
言うまでもなく、いつしか喧嘩仲間は友情はぐくみ、やがて恋に発展したのであります。そして私の大学卒業を待って、結婚式をあげたのであります。(ちなみに、私の手紙は一通も残っておりません)
私の新卒最初の赴任先は、新見市立明新小学校でした。春爛漫の4月、蒸気機関車が石蟹のトンネルを抜けると、そこは山も谷も人家も、まるで雪国のように、白く霞んでいました。石灰の町であったからです。5年生生36名の担任、子供たちの前に立つことが楽しみで楽しみで、毎日わくわくして教壇に立ちました。
ところが、数週間経過した頃、全校朝礼時に、先輩教師達が誰もいない、という異変が起こりました。やむなく新米教師の私が、全校生徒に号令をかけざるを得ない状況になりました。先輩教師達は何をしていたのか。彼らは、高梁川の河原に集合して、デモをしており、そのために、いつも遅刻して出勤しておりました。
当時、私は学生時代の友人4人(小学校2名中学校、高校各1名)と、同じ家に下宿しており、「子供を犠牲にするストは許せんなぁ」という共通の思いに至りました。そして、ついに堪忍袋の緒の切れるところとなり、4人で頭を突き合わせ、組合を脱退することに致しました。数回の徹夜の後、脱退声明文を作成して、県下の小・中学校長宛に送り、同時に組合に届けたのであります。
翌朝の地方新聞は、裏面一面を割いて、「組合活動は嫌だ」のタイトルのもと、一方的に断罪されたのであります。私達の本意は曲解され、それから凄まじい組合からの攻撃に晒され、のみならず国労からも勤労からも集中放火を浴びることになったのであります。組合のオルグと称する人が、学校に来て、授業中であろうがお構いなく、面会を強要され、人権蹂躙とも思える罵声を浴びせられ、助けるものは誰もなく、孤立無縁の戦いに飲み込まれていきました。
ついに、私の友人3人は、組合に復帰することになりました。私は彼らを助けることができなくて、悲しくて、辛くて、涙を以て、復帰を許したのであります。私は1人、学生時代に培った空手道部の精神あればこそ耐えることが出来たのであります。教師1年目にして、波乱万丈の幕開けとなりました。
豊子は三歳の時に、大東亜戦争で父を失い(昭和19年5月14日・北支)、以来、母水畑保子は、まさに女手一つで豊子を育て、地元白石小学校から、附属中学校朝日高校から小学校教師への道を目指して岡山大学に進学。豊子、大学3年生の時に、私との初めての出会いがありました。
それは藤沢教授の歴史臨地研究の視察研修で、京都奈良の古寺巡礼に赴いた時であります。京都に向かう列車の席が、図らずも向かい合うことになり、岡大新聞部、噂にたがわず、かなり手強く、革新的であり、私は、戦争で九死に一生を得た明治生まれの父と、拓殖大学に進学した兄の薫陶を受けて、保守こそが真の革新のなれる、という信念があったので、話は始めから真っ向対立気味。
ほとんど協調も妥協もなく、終始マルクス・レーニンの「唯物論」や「唯物史観」を通した物の見方、考え方の論争でありました。私は、その時、すでにマルクス・レーニン主義はもとより、バークレー僧正の「唯心論」をも超える第三の哲学を説いたのであります。
旅を終えたら、空しさも悔しさもあり、それから自分の思いをぶつける手紙を書き続けました。その数たるや何十何百通にも及ぶものでありました。当然返信もあり、その一つ一つを心に刻みながら、残らずスクラップ帳に張り付けて残したのであります。
言うまでもなく、いつしか喧嘩仲間は友情はぐくみ、やがて恋に発展したのであります。そして私の大学卒業を待って、結婚式をあげたのであります。(ちなみに、私の手紙は一通も残っておりません)
私の新卒最初の赴任先は、新見市立明新小学校でした。春爛漫の4月、蒸気機関車が石蟹のトンネルを抜けると、そこは山も谷も人家も、まるで雪国のように、白く霞んでいました。石灰の町であったからです。5年生生36名の担任、子供たちの前に立つことが楽しみで楽しみで、毎日わくわくして教壇に立ちました。
ところが、数週間経過した頃、全校朝礼時に、先輩教師達が誰もいない、という異変が起こりました。やむなく新米教師の私が、全校生徒に号令をかけざるを得ない状況になりました。先輩教師達は何をしていたのか。彼らは、高梁川の河原に集合して、デモをしており、そのために、いつも遅刻して出勤しておりました。
当時、私は学生時代の友人4人(小学校2名中学校、高校各1名)と、同じ家に下宿しており、「子供を犠牲にするストは許せんなぁ」という共通の思いに至りました。そして、ついに堪忍袋の緒の切れるところとなり、4人で頭を突き合わせ、組合を脱退することに致しました。数回の徹夜の後、脱退声明文を作成して、県下の小・中学校長宛に送り、同時に組合に届けたのであります。
翌朝の地方新聞は、裏面一面を割いて、「組合活動は嫌だ」のタイトルのもと、一方的に断罪されたのであります。私達の本意は曲解され、それから凄まじい組合からの攻撃に晒され、のみならず国労からも勤労からも集中放火を浴びることになったのであります。組合のオルグと称する人が、学校に来て、授業中であろうがお構いなく、面会を強要され、人権蹂躙とも思える罵声を浴びせられ、助けるものは誰もなく、孤立無縁の戦いに飲み込まれていきました。
ついに、私の友人3人は、組合に復帰することになりました。私は彼らを助けることができなくて、悲しくて、辛くて、涙を以て、復帰を許したのであります。私は1人、学生時代に培った空手道部の精神あればこそ耐えることが出来たのであります。教師1年目にして、波乱万丈の幕開けとなりました。
- |徒然
岡山県の活性化のために一人でも多くの方とふれあい、たくさんのご意見をお聞きしたいと思います。