2019年01月01日 年末を振り返って
新年のご報告をする前に、昨年末の出来事を少しだけご報告しておきます。
平成30年12月27日(木)~29日(土)の3日間、24名の若者たちと共に鹿児島を訪れました。
旅の一番の目的地は「知覧特攻平和会館」です。
大東亜戦争の末期、(小・中・高の教科書をはじめ各種メディアなどでも、今次大戦を“太平洋戦争”と呼称していますが、日本は開戦後初の帝国議会にて、今次大戦を“大東亜戦争”と名付けています。“太平洋戦争”とは、アメリカ軍の主要戦地が太平洋であったことに基づく、アメリカの歴史において用いられている名称です。)
沖縄戦において、人類史上類をみない「特攻」という作戦が実行されました。
飛行機もろとも敵艦に突っ込む、捨て身の攻撃です。これにより、数多くの若者が戦死しました。館内には、彼らの遺品や関係資料などが多数展示されています。
私は4年に一度、この平和会館を訪問し、戦死した特攻隊員の霊を偲ぶと同時に、同行する若者たちに命の尊さや尊厳を説いています。
攻撃直前の若者たちの写真も掲示されていますが、満面の笑みをたたえた、その純粋な表情を見るたびに強い感動を覚えます。
―――この日、隊員は何を思っていたのだろうか。――――
「知覧特攻平和会館」の参道脇には、全国から寄進された、数多くの慰霊灯籠が建立されています。そのなかで、最も新しいものは歌手の北島三郎さんが寄進されたものです。
施設には、ゼロ戦の展示もあります。
これは、平成19年に後悔された映画「俺は君のためにこそ死にに行く」の劇中で使われたもので、当時のゼロ戦を忠実に復元したものです。
平和であることが当たり前の社会に生きる、特攻隊員らと同世代の若者たちは、いったい何を感じるのだろうか・・・。
NHKの大河ドラマ「西郷どん」のラストシーンの舞台となった、城山へも行ってまいりました。
城山を包囲した討伐軍(明治政府)の数5万人。対する薩摩軍はわずか350人。
戦争史のなかでも、最も熾烈で過酷な戦いでした。
包囲された西郷隆盛は、「もぅ、ここでよかろう」との言葉を残し、襟をただし、はるかに東の方向を拝んだのち切腹しました。
「ごめんなったもんじ(お許しください)」と叫び、介錯をした別府晋介もまた、その場で自害しました。
――あぁ~なんと凄まじい戦いだったことか!
この西南戦争以降、武力を持って政府に対抗するものはなく、国に対する反逆者とみられていた西郷隆盛も、大日本帝国憲法発布の際、特赦によりその罪を許されました。
明治天皇は西郷隆盛のことをことのほか慕い、いくたびも御製に残されています。
「今も世にあらばと思ふ人をしも この暁の夢に見しかな」(明治37年)
「いにしへほ夢とすぶれど誠ある 臣の言葉は耳に残れり」(明治37年)
「思ふこと何につけても偲ぶかな もとゑ定めし人のいさをを」(明治43年)
「身を捨てていさをを立てし人の名は 国の誉れととともに残さん」(明治44年)
「暁の目覚めに思ふかな 国に尽くしし人のいさをを」(明治45年)
これらは、いずれも西郷隆盛を熱く思い称える御製です。
平成30年12月27日(木)~29日(土)の3日間、24名の若者たちと共に鹿児島を訪れました。
旅の一番の目的地は「知覧特攻平和会館」です。
大東亜戦争の末期、(小・中・高の教科書をはじめ各種メディアなどでも、今次大戦を“太平洋戦争”と呼称していますが、日本は開戦後初の帝国議会にて、今次大戦を“大東亜戦争”と名付けています。“太平洋戦争”とは、アメリカ軍の主要戦地が太平洋であったことに基づく、アメリカの歴史において用いられている名称です。)
沖縄戦において、人類史上類をみない「特攻」という作戦が実行されました。
飛行機もろとも敵艦に突っ込む、捨て身の攻撃です。これにより、数多くの若者が戦死しました。館内には、彼らの遺品や関係資料などが多数展示されています。
私は4年に一度、この平和会館を訪問し、戦死した特攻隊員の霊を偲ぶと同時に、同行する若者たちに命の尊さや尊厳を説いています。
攻撃直前の若者たちの写真も掲示されていますが、満面の笑みをたたえた、その純粋な表情を見るたびに強い感動を覚えます。
―――この日、隊員は何を思っていたのだろうか。――――
「知覧特攻平和会館」の参道脇には、全国から寄進された、数多くの慰霊灯籠が建立されています。そのなかで、最も新しいものは歌手の北島三郎さんが寄進されたものです。
施設には、ゼロ戦の展示もあります。
これは、平成19年に後悔された映画「俺は君のためにこそ死にに行く」の劇中で使われたもので、当時のゼロ戦を忠実に復元したものです。
平和であることが当たり前の社会に生きる、特攻隊員らと同世代の若者たちは、いったい何を感じるのだろうか・・・。
NHKの大河ドラマ「西郷どん」のラストシーンの舞台となった、城山へも行ってまいりました。
城山を包囲した討伐軍(明治政府)の数5万人。対する薩摩軍はわずか350人。
戦争史のなかでも、最も熾烈で過酷な戦いでした。
包囲された西郷隆盛は、「もぅ、ここでよかろう」との言葉を残し、襟をただし、はるかに東の方向を拝んだのち切腹しました。
「ごめんなったもんじ(お許しください)」と叫び、介錯をした別府晋介もまた、その場で自害しました。
――あぁ~なんと凄まじい戦いだったことか!
この西南戦争以降、武力を持って政府に対抗するものはなく、国に対する反逆者とみられていた西郷隆盛も、大日本帝国憲法発布の際、特赦によりその罪を許されました。
明治天皇は西郷隆盛のことをことのほか慕い、いくたびも御製に残されています。
「今も世にあらばと思ふ人をしも この暁の夢に見しかな」(明治37年)
「いにしへほ夢とすぶれど誠ある 臣の言葉は耳に残れり」(明治37年)
「思ふこと何につけても偲ぶかな もとゑ定めし人のいさをを」(明治43年)
「身を捨てていさをを立てし人の名は 国の誉れととともに残さん」(明治44年)
「暁の目覚めに思ふかな 国に尽くしし人のいさをを」(明治45年)
これらは、いずれも西郷隆盛を熱く思い称える御製です。
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