熱血先生はたようじ 波多洋治 BLOG

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2016年12月19日 金婚式を迎えて =波乱万丈の半生記=  波乱万丈その三

宇野小学校6年目のある春、ある一流の大手建築会社から、「課長待遇、年収現行給与の2倍」の条件を提示され、三顧の礼を以て転職を奨められたのであります。大学の後輩が、不肖私を推薦し、支店長、営業部長、経理部長と後輩の4名が、しばしば自宅まで足を運んで下さり、企業の将来性や待遇向上について、説得し続けるものですから、逡巡することおよそ1年、丁重にお断りを申し上げました。

その経過の中で、教師道とは何か。教師の生き様はどうか。金儲けに代わる価値とは何か。教師が築く財産とは何か。等々を学ぶことができました。経済界の風雪に耐えながら、なお夢に向かって格闘し続ける民間企業の厳しさや、建築という形ある物を後世に残すやり甲斐がある、と言う語らいの中で、いよいよ教師としての思想堅固にすることができた体験であったと痛感しました。この経験は、飢えた旅人への水のように、以後の学級経営に大いに役立ったのであります。

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2016年12月18日 金婚式を迎えて =波乱万丈の半生記=  波乱万丈その二

2年間の小学校の後、岡山市立宇野小学校に転勤することになりました。3年生の担任、青春真っ只中の、教育技術などとはほど遠い、体ごとのぶつかり合い、よく遊び、よく学びの6年間でありました。

宇野小学校には、尊敬する岡大空手道部の先輩がいて、教師道について教えていただきました。校長さんは、私が教育実習の時に教えていただいた先生でした。いつも温かく、親爺のような思いやりに溢れ、誤りや行き過ぎには諭すが如く教えていただきました。また教頭さんは、体育への情熱熱く、子供達をいつの間にか、その気にさせて、子供達を燃やしていく術を学びました。よき師とよき先輩に恵まれ、まるでお釈迦様の手のひらで踊るが如く、舞うが如く、自由闊達・自由奔放に教師生活を過ごすことが出来ました。


宇野小2年目の2月7日の夜の事でした。当時は宿直と言う制度があり、私の当番の夜のことです。岡大空手道部の先輩達4人が宿直室に集まり、この年の初めに開設した宇野空手道少年団の団員達の名簿作成に取り組んでおりました。
深夜零時を過ぎた時、突然けたたましいサイレンの音に宿直室を飛び出したところ、職員室が火の海でありました。職員室には、学校にとって最も大切な指導要録などの重要書類があります。私は火の海に飛び込んだのであります。その時先輩達に、「はたぁ! やめろぅ!」と羽交い締めにあって、何も出来ず、ついに管理棟は全焼に及びました。私達は、ただ茫然と真冬の夜に燃える火の海を眺め、立ちすくんでいたのであります。1人の先輩が、ぽつねんと、「これで飛ばされるな」とつぶやきました。

当夜の宿直員であった私は、パジャマ姿のまま西警察署に連行されたのであります。事情聴取を受けた後、取調室で休んでいると、突然1人の若い新聞記者が入ってきて質問をしてきました。「ストーブの火は?」「確実に消しました!」・・・何と、翌朝の社会面のトップ記事に校舎の燃え盛る写真と共に、私のコメントは、「消したと思うが・・・」となっていたのであります。私は、自信を以て確実に消したと答えたにもかかわらず・・・「報道」がいかにいい加減かを体験的に学んだ時であります。

翌日、火災跡地の現場検証に立ちあいました。プレハブの教室の窓から、クラスの子供たちが顔を出して、大きな声で、「せんせいぃ! せんせいぃ!」と呼びかける声は今も耳の奥に残っています。それからクラスの父兄達の私を守るための、凄まじい戦いが繰り広げられました。
教育委員会に対し、学校に対し、地元の市会議員に対し、まるで我が子を守る母のように、両手を広げて立ち向かってくれたのです。その結果、まさにあの火災のさ中につぶやいた「これで飛ばされる」と言うこともなく、いささかの人事の差別を受けることもなく、まったくの平常心で職務に精励することができました。

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2016年12月17日 金婚式を迎えて =波乱万丈の半生記=  波乱万丈その一

昭和41年10月16日、妻・豊子との結婚式。式場は護国神社、豊子にとっては父の眠る場所でもありました。以来50年の歳月が流れました。

豊子は三歳の時に、大東亜戦争で父を失い(昭和19年5月14日・北支)、以来、母水畑保子は、まさに女手一つで豊子を育て、地元白石小学校から、附属中学校朝日高校から小学校教師への道を目指して岡山大学に進学。豊子、大学3年生の時に、私との初めての出会いがありました。

それは藤沢教授の歴史臨地研究の視察研修で、京都奈良の古寺巡礼に赴いた時であります。京都に向かう列車の席が、図らずも向かい合うことになり、岡大新聞部、噂にたがわず、かなり手強く、革新的であり、私は、戦争で九死に一生を得た明治生まれの父と、拓殖大学に進学した兄の薫陶を受けて、保守こそが真の革新のなれる、という信念があったので、話は始めから真っ向対立気味。
ほとんど協調も妥協もなく、終始マルクス・レーニンの「唯物論」や「唯物史観」を通した物の見方、考え方の論争でありました。私は、その時、すでにマルクス・レーニン主義はもとより、バークレー僧正の「唯心論」をも超える第三の哲学を説いたのであります。

旅を終えたら、空しさも悔しさもあり、それから自分の思いをぶつける手紙を書き続けました。その数たるや何十何百通にも及ぶものでありました。当然返信もあり、その一つ一つを心に刻みながら、残らずスクラップ帳に張り付けて残したのであります。
言うまでもなく、いつしか喧嘩仲間は友情はぐくみ、やがて恋に発展したのであります。そして私の大学卒業を待って、結婚式をあげたのであります。(ちなみに、私の手紙は一通も残っておりません)


私の新卒最初の赴任先は、新見市立明新小学校でした。春爛漫の4月、蒸気機関車が石蟹のトンネルを抜けると、そこは山も谷も人家も、まるで雪国のように、白く霞んでいました。石灰の町であったからです。5年生生36名の担任、子供たちの前に立つことが楽しみで楽しみで、毎日わくわくして教壇に立ちました。
ところが、数週間経過した頃、全校朝礼時に、先輩教師達が誰もいない、という異変が起こりました。やむなく新米教師の私が、全校生徒に号令をかけざるを得ない状況になりました。先輩教師達は何をしていたのか。彼らは、高梁川の河原に集合して、デモをしており、そのために、いつも遅刻して出勤しておりました。

当時、私は学生時代の友人4人(小学校2名中学校、高校各1名)と、同じ家に下宿しており、「子供を犠牲にするストは許せんなぁ」という共通の思いに至りました。そして、ついに堪忍袋の緒の切れるところとなり、4人で頭を突き合わせ、組合を脱退することに致しました。数回の徹夜の後、脱退声明文を作成して、県下の小・中学校長宛に送り、同時に組合に届けたのであります。

翌朝の地方新聞は、裏面一面を割いて、「組合活動は嫌だ」のタイトルのもと、一方的に断罪されたのであります。私達の本意は曲解され、それから凄まじい組合からの攻撃に晒され、のみならず国労からも勤労からも集中放火を浴びることになったのであります。組合のオルグと称する人が、学校に来て、授業中であろうがお構いなく、面会を強要され、人権蹂躙とも思える罵声を浴びせられ、助けるものは誰もなく、孤立無縁の戦いに飲み込まれていきました。

ついに、私の友人3人は、組合に復帰することになりました。私は彼らを助けることができなくて、悲しくて、辛くて、涙を以て、復帰を許したのであります。私は1人、学生時代に培った空手道部の精神あればこそ耐えることが出来たのであります。教師1年目にして、波乱万丈の幕開けとなりました。

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はたようじ 波多洋治

はたようじ 波多洋治

自由民主党公認岡山県会議員

昭和18年9月14日 島根県隠岐島生れ

住所/岡山県岡山市北区白石65-3

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